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「43歳の落とし穴」を乗り越えて。衝動とは生き方|探険家・角幡唯介✕YAMAP 春山慶彦 vol.2
なぜ多くの冒険家、探検家が43歳前後で命を落としてしまうのか──。これを「43歳の落とし穴」と表現するのが、北極圏で犬ぞりの狩猟旅を続ける探険家、角幡唯介さん。今年48歳を迎えた角幡さんが自身の経験を振り返りながら教えてくれたのは、実績を重ねると生じてくる、年代特有のある考え方でした。
現代の冒険論と北極圏が庭になってしまった悩みについて語っていただいた前回に続き、YAMAP代表の春山慶彦が、角幡さんの行為の本質を伝えるための文字表現へのこだわりや、人生における衝動の大切さとともにお聞きしました。
vol.1を見る|最新・冒険論|冒険家・角幡唯介 ✕ YAMAP春山慶彦対談vol.1
目次
文章の本質と、写真に感じる不完全さ
YAMAP代表 春山慶彦(以下、春山)
角幡さんが撮られた写真は、本ではかなり少ないと思っていますが、写真を撮ることに興味はあまりないのでしょうか。
探険家・角幡唯介さん(以下、角幡)
もちろん、旅には必ずカメラを持っていきます。でも、枚数は少ないみたいですね。友達の写真家、竹沢うるまさんと昨年一緒に旅をしたのですが、「撮影している枚数が全然少ない」と驚かれました。撮ってはいるのですけれど、自分の写真がそんなにいいとは思っていないこともあります。
春山
なので、ものすごく「言葉の人」だなと思います。言葉と冒険を突き詰めて体現してるのは、角幡さんだけなんじゃないか、と著作を読んでいて思っていました。
私は写真が好きで、写真家になりたい思いがあったので、心が動いたらシャッターを反応的に切ります。
だけど、角幡さんは、その行為の後に、意味を後から言葉で考えるというプロセスでずっと内省を深めている印象があります。
そこが角幡さんの際立ったところで、普通の人があまり悩まないことや、見過ごすことを、根源的なところから考えていますよね。
角幡
現場ではほかの人が見過ごさないことを、簡単に見過ごしているんですけどね(笑)。
春山
カナダに何人かで行ったときには、「GPSがあることで、土地との結びつきが感じられなかった」と書かれています。
そこから地図やGPSを手放し、裸の大地、裸の山と向き合ったとき、「どう自分が対峙できるのか、自分の感覚がどうなるのかを知りたい」と言葉を続けていました。ただ、一緒に行った人はそんなふうに思っていなかったはずです。
角幡
たしかに、思っていないでしょう。その意識の違いは、たぶん書いて表現するからですね。
自分が考えたのと少し違うぐらい、はっきり言葉にならない違和感みたいなのが、ちょっと棘(とげ)として現場にある。帰って書き始めると、そういうのが気になって、考え出します。ずっとその繰り返しですね。
あと写真については、本当に大変なときに撮れないというのもあります。すごい吹雪の中で頑張って行動し、ピンチになっているとき、一番面白い場面が残せないですから。
極夜行の旅も、NHKのフリーのディレクターの人がわざわざ、北極にあるシオラパルクという世界最北の村まで来て、「現場で動画を撮っといてください」とカメラを渡され、撮ったものが番組になりました。
でも、凄まじい吹雪とか、自分が本当に困難な状況では、カメラを回す余裕がないから、映像や写真はありません。後から振り返って、表現物として面白くなるところを撮れない写真とか動画って、自分自身が行動しているので、不完全さをどうしても感じてしまいます。そこが読み物との違いですね。
春山
表現というより、行為に誠実だから、大変な時が来たから「しめしめ」と思って写真を撮ったり、自分を写したりするわけでなく、その状況の中で、純粋に行為としてどう向き合うかを優先していますよね。
角幡
そもそも、そんな状況下で写真を撮っていたら死んでしまうかもしれませんからね(笑)。
文章で本質を表現できたということについて、私は『極夜行』(文藝春秋)という本が一番うまくいったと思っています。北極の極夜という状況は、何もない。ただ暗いだけです。写真や動画に撮っても、視覚的に表現できない。
無の世界で、ただ沈黙があるだけなんです。でも、その中で僕は混乱を見出し、「極夜の本質は混乱だ!」と思っているのは間違いない。
映像、画像という表面的な伝達手段では出てこない、より奥深いところにある本質的なものを、言葉によって掴み出して表現できる。それが言葉の強みです。
冒険家が43歳で抱える感情
春山
角幡さんは「冒険家・探検家は43歳で死亡することが多い」という現象について、「43歳の落とし穴」と名付けられています。その理由を教えてください。
角幡
その年齢を通り過ぎた身として感じるのは、「焦り」だと思います。40歳ぐらいまでは経験値や技術があがりますが、徐々に肉体的な力は落ちてくる。終わりが見えてきたときに「このままだと自分はダメになる」という焦りが湧いて、無理な行動をしてしまう気がします。
例えば、犬ぞり単独行で世界初の北極点到達などを成し遂げた、世界的な冒険家の植村直己さん。厳冬期のマッキンリー(デナリ、6,190m)に世界初登頂した下山の途中に亡くなってしまいましたが、なぜ行ったのかよくわからないのですよね。本当は南極に行きたかったのに、計画の許可がフォークランド紛争でおりず、見通しがつかなかったわけですよ。
冬のマッキンリーを登れば南極への実績づくりになるという表面的な理由もあったとみられますが、それよりも「何かやらないと自分がダメになる」という焦りがあって、わざわざ冬のマッキンリーに登って亡くなったとみています。
私自身、43歳で「老後、何しよう」と初めて考えた時期でもありました。そのときに犬ぞりや狩猟がいいと思い始めましたけど、それまで終わりを意識したことがなかったので自分で自分に驚きました。
おそらく、登山で言う、頂上から下界を見て、撤退方法を考えるのと同じなのではないかと思います。体力と気力のピークに立ち、私自身も老後について考えましたし、マッキンリーで亡くなった植村直己さんも、似たような心境だったと想像できます。
春山
私は今ちょうど43歳なんですが、下界はまだ見えないかもしれません。
角幡
それは幸せですね(笑)。
春山
ベンチャービジネスという形で冒険をしているからだと思います。この分野は体力的な限界を感じることが少ないので、ピークを感じていないだけかもしれません。
ただ、40代に入って社会的役割、つまり「分人」の形をたくさん背負わされるようになって、足元をすくわれそうだと感じています。
夫、父親、地域の住民、私の場合はプラス経営者。1人でいろいろな顔を持たなくてはいけない。役割によって求められる責任が発生し、自分の行動や選択が「自分の意思でやっている」のか「社会的責任でいつのまにかやっている」のか、わからなくなります。
私が尊敬している写真家の星野道夫さんも43歳でロシアのカムチャッカでクマに襲われて亡くなっています。星野さん自身、ピークが見えた中で世間から注目を集めた。結婚して子どももいて、生活を成り立たせなくてはいけない。そういう社会的責任から、普段はやらないような旅をして事故が起きてしまったのではないのでしょうか。
角幡さんはいつ命を落としてもおかしくない状況に身を置いてきましたが、ご自身の旅を振り返ったとき、なぜ生き残ったと思っているのでしょうか。
角幡
いやあ、「俺、死ななかったなぁ」とも思いますよね。もちろん、生きていた方がいい。一方、「死」まで至っていない私は「自分を追い込んでないんじゃないか」「不完全なんじゃないか」という変な負い目を感じることもあります。
春山
角幡さんが43歳を過ぎても、冒険を続けているのは「言葉を探す欲求」ゆえなのではないでしょうか。
角幡
確かに、本を読んで納得したことを、実際に経験して確かめてみたい衝動はあります。例えば、ここにある星野道夫さんの本では、次のように書かれています。
アザラシ
私たちはアザラシを食べ
アザラシは魚たちを食べ
魚たちは海の中の小さな生き物を口に含む
生まれて変わってく命です
生命の循環は知識としては知ってはいます。しかし、初めてシカに引き金を引いたとき「自分は自然の一部になれた」という気持ちとともに、「なぜこのシカは死ななくてはいけないのか」という気持ちも湧きました。
その時に、「死がネガティブなのは人間の価値観であり、自然の中では生も死も同等なものだ」という星野さんの言葉が身体で理解できました。
言葉が自分の経験として腑に落ちる瞬間。言葉のひとつの背後を知ることが、実は世界を知ること。そういう瞬間を探している気がします。
春山
おこがましいですが、角幡さんはその行為の純度、言葉を変えると、表現は悪いかもしれませんが、絶対に譲れない狂気性が高いからこそ、足元をすくわれずにいたように見えます。
角幡
それはさっき言っていたような社会的役割を担った分人が増え、自分自身の純度が薄まった行為をやらざるを得ないときに、足元をすくわれる、ということに近いイメージでしょうか。
春山
ほぼ一緒だと思います。本音では、自分はやりたくない。あるいは本来の自分のスタイルならやらないのに、いろいろ打算的に考えてやってしまうことが、どんなに意志が強い人であっても出てきます。そのときに容赦ない感じで襲ってくるのが、冒険、探検だなと思っています。
クマに殺される“釣り合い”
春山
若い頃にアラスカで2年半を過ごした際、現地のクジラ漁、アザラシ漁に参加させてもらったのがはじまりで、今もたまに狩猟に出かけています。狩猟を経験すると、生命として対等であることが実感できます。
自分で動物を殺し、まだ温かいうちにさばいて、食べる。悲しみがありながらも、力が湧いてくる。矛盾しているように見えるけれど、それが生命の循環だと悟る。自分の命に対して背筋が伸びるので、自分の子どもにも若いうちに狩猟の経験をしてもらいたいと思っています。
狩りをテーマにした『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』(集英社)では、角幡さんが「自分はクマか何かに殺されて死ぬのが、釣り合いがとれていいと思う」と書かれていたのも印象的でした。
角幡
『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』を出版する前、グリーンランドでシロクマに殺されそうになったことがありました。寝ている間に、犬が突然けたたましく吠え出して、テントの入り口を開けたらすぐそこにシロクマがいた。
「シューシュー」と荒く息を立てながら近づいてくるので、ライフルの弾を入れようとしたんですけれど、詰まってしまってうまくいかない。「あれ? 入んねえ! やばいどうしよう」と焦って、パッと見上げたらシロクマと目があった。
「俺はこいつに殺されるんだ」と思いながらも、「殺される立場に身を置くのも、同じ生命として公平でいいかもなあ」と冷静な自分がいました。
野生動物を殺す以上は、自分も殺される立場に身を置かないと不公平だと思います。といいつつも、そこで殺されるわけにはいかないから、なんとか弾をこめて撃ち殺しました。たまたま一発入った弾がシロクマの頭に入ったからよかったのですが、クマの頭蓋骨は弾を弾き返すこともあるので、そうなっていたら今頃どうなっていたでしょうね。
システムの内側から変える
春山
角幡さんにとって「冒険や探検はシステムの外に出る行為」で、それは今も変わっていないと先ほど話されていました。その考えに共感する一方、私自身は「今の時代は、逆にシステムの中にいながら行動する方が純度が高い」という気がしています。
というのも、自分がアラスカにいた頃、日本に帰国するかどうかで悩んだ時期がありました。通信技術がまだ発達していなかった星野道夫さんや植村直己さんの時代は、日本から来た人間として、写真や文字で極地の様子を伝える行為が表現として成り立っていましたけれど、現在では違うのかなと思っています。
インターネットが普及している現代、アラスカを伝えるには、イヌイットの人たちが自分たちの言葉で、自分たちらしい切り取り方をした方が絶対にいい。
イヌイットの人たちと一緒にいると「お前はどうなんだ?」みたいな問いが頻繁にあって、「自分自身のネイティブ意識」を持ちたいと考えるようになりました。自分に馴染みのある場所で、足元を見る、掘る。今この場所で、自分のいる場所を縦に掘る冒険にでようと思って帰国しました。
角幡さんはシステムの外に出た後でも、日本に戻ってきて生活をしていますよね。システムの内側も手放していない。外と内とを行ったり来たりする中で、変わったこと・変わらないことはありましたか。
角幡
この10年ほど、グリーンランドで1年の半分を過ごしてきましたが、今でも「よそ者」の感覚があります。地元のエスキモーをリスペクトしてるし、彼らのようになりたいから犬ぞりをしているけれど、そこで骨を埋めるわけではありません。
この中途半端な状態を解消したいし、ゆくゆくは生活そのもので冒険したい。そうなると、自分の生まれ育った北海道に戻って新しいことをするのがいいだろうと思っています。
例えば、向こうから犬を北海道につれてきて繁殖させて、犬ぞり文化を広げるのが理想です。レースではなく、生活の中にある犬ぞりですね。
春山
学校に犬ぞりで通うとかができると、いいですね。
角幡
樺太アイヌは犬ぞりが暮らしの中にあったらしいのですが、北海道アイヌはやっていない。犬ぞりは移動手段としてはすごく優れているので、なんとかつなぎとめて人類史を変えたいです(笑)。
春山
犬ぞりの南限を広げるわけですね(笑)。
角幡
これは冗談ですが、人間は土地の中でしか生きられないと思っているので、地元の北海道には戻りたいと考えてはいます。
こういう意識が生まれたのは、沖縄・伊良部島のマグロ漁師についてのノンフィクション『漂流』(新潮社)を書いた時です。その方は佐良浜出身の漁師で、37日間の漂流から生還し、マグロ漁師を再開しますが、また海に出て行方不明のまま。彼の周辺を調べていくうちに、佐良浜の漁師文化にすごく惹かれました。
彼らは海に対して恨みつらみがたくさんあるけれど、海の中でしか生きていけないことを享受している。土地のDNAのようなものが各々の神経細胞にまで染み付いているようで、羨ましかったです。これこそが、人間の生き方の始原なんじゃないか、と思っています。
衝動は人生そのもの
春山
最後にお聞きしたかったのが、角幡さんの「衝動」に対する考え方についてです。「思いつく」ということが、いかにその人の人生そのものか」ということをいたるところで文字にされていて、本当にその通りだなと共感しています。
なぜときめき、なぜ思いつき、なぜ衝動が生まれるのか。角幡さんが「その人の人生そのものがそこに表出している」と表現されていたのが、とても説得力がありました。私も自分の命のワクワクとか、いいなと思うものに関しては、もっと自信を持ち、大事にする必要があるとあらためて思います。
角幡
衝動は、ふとした拍子に出てくるものです。たまたま手に取った何か本だったり、たまたまそこで出会った人だったり。そういう偶然性っていうのが、すごく大事なんだろうなと思っています。
偶然は、自分ではもう制御できないもの。自分が起きてほしいと願っても、起きるわけではありません。本当に、どうなるかわからないところに身を投じるってことなんです。でも偶然性こそが、人を作ると思っています。
私の言い方だと、偶然とは、そのとき、その場でたまたま起きたこと。そのとき、その場にいたのは、世界で自分しかいない。世界で自分にしか起きない固有の出来事が偶然なのです。その偶然を大事にしていくことが、自分の人生が固有的、つまり道になると思うんですよね。
今の世の中は、情報で固めて、先を読んで、間違いのない、合理的に考えて行動することが大事とされています。
でも、自然の中に行くと、生きていく上でそんなことはないわけです。偶然にあった何かが生存にとって重要だったりして、それは効率性とか合理性の世界ではない。不確定な状況で、人は生きている。
私がそれを一番感じたのが結婚です。こういう話はね、妻にすると、「何さ!」って言われるのですが(笑)。
理屈で考えたら、結婚は、全くわりに合わないと思いませんか。どこの馬の骨ともわからない他人とずっと顔を突き合わせ、一生を過ごすことになる。理屈で考えたら狂気の沙汰ですよね。
だけど、少なくなってきたとはいえ、結婚する人はする。なぜか。理屈ではわりに合わない、2人の関係性の中で何かが起き、自分の意思を超えて何かが起きたからです。
出会いの中で自分が自分の意思を超え、何か自分の運命が放り出されてしまって、その中で生きていかざるを得ない。そういうふうになったのって、自分のそれまでの生き方とか、過去とか、それまでの偶然の積み重ねがあって起きたことです。
自分に対して、その生き方、そういう偶然に身を投じてしまった責任があると思うんです。だから、思いついて衝動が起きたらそれをやる。
思いついたら、それは自分が今まで生きてきた履歴、経歴とかね、その道筋があったから、そういう衝動が思いつくわけです。
それをやっていくことによって、なにか人間的に完成していくんじゃないかなっていうのが、私の考え方です。
春山
もう一個、角幡さんの本を読んで、もうちょっと広く捉えられることに気づきました。衝動というのは、その個人の人生だけでなく、3世代ぐらいかかっていて、さらに彼らを取り巻く土地や環境の影響まで含んでいるのではないかなと考えています。
それを思ったきっかけは、新興宗教の家庭でずっと育ってきた宗教二世の女性が、自分の意思で20代になってすぐぐらいに脱退するドキュメンタリー番組でした。
初めて宗教の外の社会に出て恋愛し、結婚、子育てをする姿を追っていました。ハッとさせられたのが、ずっと新興宗教の中で社会性とか、友達づきあいをやってきて、外に出たときに、どうやって人と付き合っていいのか、あるいは自分の子供ができたときに、どうやって愛していいのかがわからないっていうので、悩んでいたんです。
一般的な社会では、普通に愛したり、挨拶できてるけど、それってたぶん三世代なのか、二世代なのか、ものすごい時間がかかって、自分がそう思うようになってるんだな、と。自分の才能とか、「できている」っていうのは、本当に個人に属している部分ももちろんありますけど、それだけじゃないと感じました。
地球とつながる苦しみの先に
春山
YAMAPは企業理論として「地球とつながるよろこび。」という言葉を掲げています。最後に、角幡さんにとって、地球とつながるよろこびを感じた瞬間について教えていただければと思います。
角幡
地球とつながるよろこび。まさにそのために旅をしています。
犬と一緒に人間界から500キロ離れた氷原を旅していると、社会のしがらみからすべて開放され、純粋に「地球と俺」の感覚になれます。ああいう時間は、時空を超越してる。
北極の氷原は、もちろん環境の変化で変わってしまったところはあるものの、ずっとここにある。ちょっと大げさかもしれないけど、千年前のエスキモーや、もっと大昔のマンモスハンターが生きていた地球とおなじ地球で生きている。そんな気持ちになります。
人間というよりも地球上のただの存在として自分を認識する。アザラシやシロクマとおなじ地平に生きている。そんな感覚です。
「千年前のエスキモーと同じ状態で自分はここにいるんだ」と思った瞬間の素晴らしさは、えもいわれぬものがあります。環境的にはかなり過酷なので、苦しみなのかもしれないけど(笑)。
春山
地球とつながる苦しみ(笑)。
角幡
北極でも感じましたが、日高山脈を地図なしで行ったときも同じ感覚になりました。もう先が全く見えない中で、すごいゴルジュに入り込んでしまったとき、「この先どうなってるんだろう、山がむき出しになってる」。山と一体化している感覚ですよね。
あれはよろこびじゃなくて、もう完全に苦しみでしたね。つながりすぎたとき、地球は苦しいものでしかない。でもその先の感覚として、よろこびがあるから旅を続けるのかもしれません。
最新・冒険論。たどり着いた、土地と一体化する旅|探険家・角幡唯介 ✕ YAMAP 春山慶彦対談 vol.1
▼詳細はYouTubeの対談動画で
▼角幡さんの近著『裸の大地 第一部 狩りと漂泊』(集英社)を読む
YAMAP MAGAZINE 編集部
登山アプリYAMAP運営のWebメディア「YAMAP MAGAZINE」編集部。365日、寝ても覚めても山のことばかり。日帰り登山にテント泊縦走、雪山、クライミング、トレラン…山や自然を楽しむアウトドア・アクティビティを日々堪能しつつ、その魅力をたくさんの人に知ってもらいたいと奮闘中。
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